2008年03月28日

空襲

空襲

空襲

1944年 沖永良部島に兵士が派遣され駐留。

      日本本土への空襲が始まる。

 越山に沖永良部島守備隊として600名の兵士が配置、

  そのうち150名は沖永良部島からの現地召集兵。

 越山には米軍上陸に備え戦車豪や掘、陣地などを作った。

  多数の島民が勤労奉仕隊として協力。

1943年 アメリカの潜水艦が小米を砲撃。

1945年 3月26日 空襲

        27日 田皆国民学校が全焼

      4月4日  沖から戦艦が大山基地を艦砲射撃

        5日  砲撃により和泊国民学校が火災。

            小米、上平川、和泊、国頭に被害が出た。

        15日 知名役場が砲撃により火災

        19日 知名国民学校、大城国民学校空襲を受ける。

        20日 屋子母が空襲を受け54戸が焼失。

      7月5日  知名青年学校全焼。

        21日 B29襲来

      8月15日 終戦

沖永良部島への米軍上陸はなし。

沖永良部島での死者は42名。

家屋全焼が約1450戸

(瀬利覚200戸、知名20、黒貫30、田皆250、大津勘5、上平川70、

  和泊205、国頭4、長嶺8、)


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Posted by 沖永良部島ウミガメネットワーク at 02:44│Comments(1)沖永良部島の歴史
この記事へのコメント
この時期に郵便局は竿津山の鍾乳洞に移転していたそうです。

今でもその鍾乳洞は残っています。
Posted by 44 at 2008年03月28日 04:35
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